トイレが愛した音楽

こんにちは

 

夏の足音が猛ダッシュに聞こえます

 

すっかり梅雨ですね

 

ビチャビチャになりながら生きてます

 

 

突然ですが、今日は少し僕の実験についてお話しさせてください

 

音姫についてです

 

僕は音姫にすごく疑問を持っています

 

排泄音が気になると言うのはよくわかります

 

男女問わずそれは気になるものですよね

 

男らしさ女らしさなどという議論をするつもりはございません

 

気になるから音で消そう!という非常に単純かつ効果の大きい取り組みだとは思います

 

ただ、1つだけ疑問があります

 

それは

 

『なぜ小川のせせらぎなどの環境音なのか』ということです

 

確かに誰が聞いても聞き心地の良い音です

 

自然の織り成すオーケストラです

 

でも、そんなに美しいせせらぎを聞いてしまったら、想像力豊かな人は

 

大自然でトイレをしている気分になっちゃいますよね 

 

また、音をかき消すという目的なら、音楽でも良いのでは?という事で、自宅のトイレで実験してみました

 

 

まずは、クラシック部門から

ベートーベンの『運命』(ウンとかけたわけではありません)

 

運命を聞きながら用を足してみた結果

 

僕は追い詰められてトイレに籠った人になった気持ちでした

 

気分はよくなかったです

 

次にロック部門

エルビスプレスリーの『監獄ロック』

 

結果としては、これもダメでした

 

なんだか、体が小躍りしてトイレどころではなかったからです

 

次にポップ部門

 

マイケルジャクソンの『ビートイット』

 

なんだか踏ん張っている時に急かされている気分になりましたこれも落ち着きませんね

 

最後にクリスタルキングの『大都会』

 

夢破れて田舎に戻るときの帰りの電車のトイレで涙しながらトイレにいる気分でした

 

結果、やはりメッセージ性もなく、また穏やかな気持ちにさせてくれる小川のせせらぎが一番トイレに適している音なんだなって思いました 

 

今後も大自然の中でトイレに座る自分を想像しながら心穏やかに用を足したいと思います

 

それでは

 

 

 

トレーディング・エコノミック

トレーディングカードゲームが市場の理解をするのにはとても役に立つんですよね。
 経済学なんかやってると特にそう思います。

トレーディングカードゲーム(TCG)には楽しみ方が主に二つ。

・デザインカードとしての収集
・カードゲームとしてバトル

大きく分けるとこうなります。

それで、どちらに関しても欲しいものを手に入れる手段として、「交換」が有効なわけですが、この手順こそが最も厄介なプロセスなわけです。

交換は常に平等でなければなりません。
レアリティの高いカードでも自分に必要なければ価値はゼロですが、逆もまた然り。レアリティの低いカードでも、喉から手が出てしまってる人からすれば、その価値は高くなるわけです。

その価値基準にもいろいろあります。
・カードゲームとしての強さ
・デザインの良さ
・生産量

だいたいこの三つでしょうか。
この三つは、カードゲーム会社が決めることで、我々が操作できるものではありません。さながら「政府」と言ったところでしょう。

カードゲーム市場と言うのは、非常にシビアです。

「カードA」が200円で売られているとしましょう。弱いカードで、沢山市場に売りに出されてます。デザインのおかげでなんとか200円を保っています。

ですが、サポートとして、新しい「カードB」の登場によって「カードA」は大幅に強化されました。

すると、「カードA」は1500円になります。

ですが、喜びも束の間、その「カードA」のメタファーとして「カードC」が登場。無力化してしまうカードによって、「カードA」の値段は100円になってしまいました。

そしてさらに「カードC」のあまりの強さに価格が3000円になってしまいます。そして、カード人気に応えて「カードC」は量産が決定します。

すると「カードC」から価値は失われます。

何故でしょうか?

答えは簡単です。みんなが使うと自分のプレイスキルが求められます。つまり、「カードの強さ」が関係なくなってしまうからです。

合唱コンクールの伴奏役が課題曲を弾きたがらない心理と同じです。

カードゲームをやる人の目標としては、
「自分だけの強いデッキ」を作ることです。みんなが似たり寄ったりのデッキを持っていると、そのデッキから価値は失われてしまいます。

非常に経済学っぽいですよね。

下手をすると市場よりも激しい変遷があります。

カードゲームのカードの価値と、貨幣の価値とは、性質が酷似しています。

・価値が上がると出回らない
・出回り過ぎると暴落する
・取引によって価値を生み出す
・環境によって価値が上下する

新ルールの追加などで価格が暴落、急騰する点なんかはまさに市場ですね。


経済学が苦手な人は、トレーディングカードゲームを始めるといいかもしれません。わかりやすく理解ができると思います。


ノーゲーム

投稿にもある、ノーゲームデーの話を引っ張ります。

学力向上のためにビデオゲームを子供たちから離す。いいですね。基本的には良い考えだとは思います。

ですが、子供の立場に立って見ましょう。

絶望すると思います。

今の大人たちの考える外での遊び、現代出来る場所なんてほとんどないからです。それこそ、お金がないと遊べません。

公園でボール遊び禁止、大きな声を出すのも禁止なんてところもあります。

道路は無論遊べません。

広場だってほとんどないです。

学校の校庭は放課後は出入り禁止です。

山、川、海は安全性から立ち入り禁止なんてところも多いです。

そうです。遊び場なんてないんです。

田舎にしろ、都会にしろ。

ゲームが人気を博した理由は面白さも去ることながら、奪われて行く遊び場を再び与えられたところにあるんだと思います。

公園からどんどん遊具がなくなって行ってますね。危険だからと。

子供からすると、外で遊びなさいと言われる方が困るんです。

不審者に気をつけて、車に気をつけて、あんまり大声出さないで、ボール使わないで、だけど不健康な気がするから遊具の無い広場で遊んでおいで。

無茶です。

僕たちの世代ですら、すでに外で遊ぶのは難しかったです。

多分いまの子供はさらに肩身が狭いでしょう。

公園で集まって通信ゲームをしてますが、それが最善の選択なんですね。

一方的に与えておいて奪うと言うのも酷な話です。

そして、ゲームを悪だと言う人の魂胆が理解できません。

やる人次第ですよね。そんなもの。

加山雄三だってバイオハザードとかやってるんですよ。

加山雄三がよくて子供がよく無い理由がわかりません。

善悪の判断や、取り決めや決まりごとは親の責任であって、ゲームの責任ではないと思います。

デジタルに関して頭が固い人多すぎだと思います。

歩きスマホ二宮金次郎も同じです。
 
全てはその人次第なんです。

コンテンツに責任を着せるのは、親の能力不足じゃ無いんでしょうか?

スーパー悪影響ヒーロー

いろいろ考えていて思うことはたくさんあります。
特に、矛盾してるなぁと感じることは山ほどあるわけです。
そこで、僕が思う1番の矛盾をご紹介します。

それは、虫みたいな仮面を被ってバイクに乗る奴、五色のタイツをまとってる奴。顔がパンの人型の生物、着替えて強くなる女の子、巨大宇宙人。と言った戦うヒーロー、ヒロインについてです。

僕はスーパーヒーローが好きなのですが、これらはいわゆる、子供向け番組ですよね。
ストーリーも仮面ライダーなんかは結構複雑ですが、言葉とかは子供が分かりやすいような工夫がされてますよね。
子どもの扱いに困ったらとりあえず観せとけば子供が黙る番組です。

ストーリーはいたって単純。何かしらのきっかけに、主人公が悪い奴らを知り、悪い奴らをボコボコに叩きのめす力を手に入れて色々あって世界の平和を取り戻す。と言うものです。

おかしいですよね。

これ絶対教育に悪いですよね。

ゲームや深夜アニメはよく暴力的だーなんて批判されるんです。ですが、ゲームには暴力表現の強い作品は15歳以上のみにしか売りません。18歳以上にしか売りませんって言うステッカーがちゃんと貼ってあります。アニメは配慮の上に深夜に放映してます。

子供の教育に悪くはないですよね。

一方子供に好んで与えられるスーパーヒーロー達は一つの目標を掲げる敵さんを爆発するまでボコボコにするのです。パンチ、キックは当たり前。剣や銃と言った武器。挙げ句の果てには巨大ロボットで木っ端微塵どころか存在そのものを消すわけですよね。

しかも、目的は敵の邪魔。

もちろん平和を目標にはしてます。ですが、それは結果に過ぎません。敵の言い分を聞かずに敵をとことん滅ぼすのが基本的な目標です。残忍です。

もちろん人に被害を積極的に与えるのは怪人側ですが、流れ弾とかでビルにすごいビームが当たったりしますよね。あのビルで働いている人めっちゃ気の毒です。場合によっては怪人からは被害受けてないけどヒーローに職場をめちゃめちゃにされたなんてこともあるでしょう。

話の焦点がズレました。戻しましょう。

結局は受け取り方と言うわけです。

暴力的なゲームを許されるのは15歳以上、または18歳以上。深夜アニメは深夜まで起きてても平気な人たち。つまり未成年であっても子供ではありません。

深夜アニメや18禁ゲームが教育に悪いっておかしいですよね。教育に悪いんじゃなくて、教育の仕方が悪いんじゃないかと思います。

普通、善悪の分別がつくようになってから自分で選択して作品を楽しむような仕組みになってます。外に出てくるものは特に、そう言うことは厳重にされてます。

それを守らないのは大人の方なんです。

スーパーヒーローの暴力が良くて、ゲームの暴力が悪いと言う理論は間違ってますよね。

暴力が悪いなら、どの暴力も悪いと言う認識が必要です。

スーパーヒーローにしろゲームやアニメにしろ、結局は受け取る人が作品を作品として楽しむのがベストなんです。作品は悪くないです。悪いのは受け取る側です。

教育に悪いと文句を言うなら、まずは子供をメディア断ちしましょう。テレビもゲームもせずに育てば、善悪の判断もなにが悪いことかもよくわからないまま育っていいんじゃないでしょうかね。

何事も、ほどほどに。




今日も今日とて京都

京都に帰ってきました。

かなり雪が降ったようで、景色が少し変わっていました。

何より驚いたことは京都から出る前に向かいのアパートと僕の部屋の間のお家の屋根に乗ってたバスタオルに雪がかぶってたことです。
2週間近く屋根の上で粘っている出身不明の迷子のバスタオルくん。早く帰れると良いですね。

それにしても雪を見ると二本の板を足にくっつけて雪の降る斜面を昇り降りするスポーツがしたくなりますよね。
登っては降り。登っては降り。
ひたすら繰り返すだけですけど、謎の幸福感やら爽快感があるスポーツです。

来月群馬に帰ったら絶対に行きたいです。

雪の降る古都で約一ヶ月。机に向かったら僕の今年が終わります。
大学に入ってからはハイスピードでした。
どのくらいハイスピードかと言うとバラエティ番組の予告で見た面白シーンをいざ番組で見ようと思ったらあっけなく終わってしまった時の気持ちです。CMを許しません。

そんないい加減なCM絶対に許さない委員会会長な僕ですが、今年もよろしくお願いします。


今月末は年末

年末です。
今年もおしまいですね。早いものです。
思い返せば去年の今頃は何をしてたんですかね。多分大学が決まって浮かれてたんじゃ無いかなと思います。
スキーしてたような気もします。

ともかくここ一年振り返れば矢のように過ぎていきました。
でも現代に生きる我々には速さを表すのに矢を使われても矢の速さもイマイチ伝わりにくいですよね。専ら弾丸とかですからね。でも弾丸もそう言う職業でなければ使いませんから不適切な気がします。現代に生きる我々にとって速さを例えるのにちょうど良いものと言えばかっぱえびせんの減り具合でしょうか。気づくと空っぽですよね。かっぱえびせん

この一年間は光陰かっぱえびせんの減り具合の如く過ぎ去って行ったわけでございます。

大学に入って新しいことが沢山ありました。

楽しいことも辛いこともありました。
嬉しいことや悲しいこともありました。
左手が痛いことや右手が痛いこともありました。転んでしまったのです。どうでもいいですね。

ともかく沢山のことがあり、見えなかったものが見えるようになったりしたわけです。身長の話はやめてください。大きなお世話です。

情報端末及びそのシステムの普及のおかげで一人暮らしもさみしく無いです。
ありがたい限りですね。さみしく無いです。
そう決してさみしくなどありません。

情報端末の普及は目覚ましいものでした。これで企業は個人情報取り放題です。良い時代になったものです。インターネットの世界に足を踏み入れたら最後、情報は筒抜けと言うことを忘れずに使用することが大切です。スマートフォンを使っている人間が個人情報云々言っている姿を見ると片腹ペインですね。心がけは良いと思いますが。その無料アプリから大量の個人情報が垂れ流しですよ?と教えてあげたいです。

なんだかまとまりがなくなってしまいました。今日はここまでにしておきます。